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遺言


「僕が、NERVに?」
 大学までシンジを訪ねてきたリツコの口から出てきたのは、とて
も信じられない様な依頼だった。
「そうよ。貴方を、NERVの最高責任者として迎え入れようと思
うの」
「どうして、僕なんです」
「さあ、私は細かい事情は聞いていないわ。ここへ来たのは冬月司
令の命令だし」
「それを伝えるだけなにのに、どうしてリツコさんなんです?」
「いきなり見ず知らずの人からそんなこと伝えられたい?」
「いえ……そうは思いませんけど。でも、そんなこと、責任が重す
ぎて」
「そう言われると思ったわ。とりあえず、暇な時に本部まで来てみ
て」

 翌日の午後はさしたる授業もなく、実験も一段落ついたところだ
ったので、NERVに出かけていった。
 通されたのは、妙にがらんとした、使われている気配のない部屋
だった。
 案内の人が出ていってしまったので、やることもなく、ただ壁を
見つめる。
「……どうして、この部屋使わないんだろ?」
 一人のつもりで、そんなことをつぶやいた。
「碇の遺言でね」
 入口の方から、声がした。
「この部屋は、本来司令用の部屋として用意されたものだ」
 振り返ると、冬月がいた。
「なんで冬月さんが使わないんですか? それに、ここのことを、
新本部のことを、父さんが知ってるはずがありません」
「ここを使わないのは私の勝手だからね。だが、碇の遺言があるの
は確かだ」
「父に遺言があったなんて、初耳です」
 ゆっくりと部屋に入って来る冬月の方に体を向けて、シンジは言
った。並んでみると、冬月の方が背が高いか。
「君が就職のことを考えはじめるまでは教えるなと添えてあったも
のでね」
「どんな、内容なんですか」
 今日呼ばれたのはそのことだろうな、とさすがにシンジも確信し
た。
「君に、NERVの最高責任者になって欲しい、だそうだ」
「……それが、遺言ですか?」
 NERVの最高責任者、という言葉の指すものを考えながら、シ
ンジは尋ねた。
「そうなる。もし、君にそのつもりがあればだが。嫌なら辞退して
くれ。そのときは、この部屋は私が使うことになる」
「それまで、待っていたんですね?」
「そうなるかな。君の父親が意図した所も私は聞いているが、それ
は教えられない。口止めされているんでね」
「父さんの遺言で、ですか」
 黙ったまま、冬月はうなずいた。
「少し、考えさせて下さい。NERVの最高責任者に僕を指名した
意味が、どんなことなのか、わかるまで。どのぐらい待ってくれま
すか?」
「君が問題なんじゃないかね、それは。そろそろ就職活動も必要な
時期だろう?」
 冬月のいう通りだ。回りではもうはじめた友人もいる。
「一月だけ、待って下さい。それまでに、結論を出します」
「頼んだよ。じゃあ、私にはまだ仕事があるから」
 冬月はシンジに背を向け、部屋から出ていこうとした。
「……このことは、内密にするべきですよね?」
 念のため、その背に尋ねた。
「そうお願いするよ」
 手を振りながら、冬月はそう答え、部屋を出た。

 その日の夕飯は、シンジの担当だった。
 今日は麻婆豆腐。
 レイは肉が嫌いなので、挽き肉を抜いたものも作る。手なれた手
つき。いつもキッチンを戦場にしてしまうアスカとは大違いだ。
(もっとも、さすがに最近はシンジとレイの両側からの指導のおか
げで少しはまともになった)
 出来上がった麻婆豆腐を更に盛りながら、今日のことを考えた。
 父さん、か。
 死んでからもう結構たつ。
 忘れていたな、だいぶ。
 6年前もそうだったけれど、強引な人だと思う。
 いきなり人に予想もつかないことを押し付けるなんて。
 あの時は、絶対に嫌だった。それでも、傷ついた綾波を見て、何
故か逃げちゃダメだと思って、エヴァに乗った。
 今度は、激しく悩んでいる。受けるべきか、受けぬべきか。嫌な
わけじゃない。ただ、何のために僕なのか、どうして僕なのかがわ
からない。NERVの最高責任者にするなら、きっと冬月さんの方
が適任だろうし……そんなふうにすぐに無理だって考えるのはよく
ないだろうか。
 わからないや。
 そのうちに、玄関のチャイムが鳴った。
 きっと、レイかアスカだ。
 ご飯を、盛らなきゃな。
 そうして日常に埋もれてシンジの思考は一度中断した。

 それから一月悩みに悩んだ末、どうして父が自分を指名したかは
わからずじまいだった。
 今日、意向を伝えるためにNERVへ出かけることになっている。
 このあいだ帰りがけに貰ったNERV本部への立入用のIDカー
ド。
 入口で、久しぶりにカードを通し、目の前で扉が開くのを見る。
 あ、懐かしいな。
 もうNERVを離れて何年か経つ。
 エヴァにも乗らなくなってからだから、結構なものだ。もう二度
とは御免だけれど。
 あれは、動かしちゃいけないものだ。
 そうか、と急に気付いた。
 僕はエヴァの本当の怖さを知ってるから、あれを動かすことがい
かに危険かを知ってるから、だからなのかもしれない。
 目的のために手段を選んでいられなかった父。
 そんなことをもう一度繰り返しちゃいけないんだ。
 だから、僕なのかも知れない。
 父のやり方を身に受けて育った、いかに目的があっても用いては
ならない手段のことを知っている僕。
 平和を目指せばいいだけの、平和な世界。その世界に必要なのは
父のような人間ではなく、僕のような人間だということじゃないだ
ろうか。
 父さんがどこまで考えて決めたのかわからないけど、僕は、そう
思う。
 だから、受けよう、この話。
 そうして、1年と半年後、碇シンジNERV総司令が誕生するこ
ととなる。


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