突如として追撃の止んだ中、目を凝らして戦場を見ていたアルフレド
の視界に捉えられたそれは、わずか40人程の集団だった。
「荒くれ獅子騎兵団? 父上は……いない?」
不安が胸をよぎる。まさかと思い、すぐにも飛び出して行って確かめ
たい衝動に駆られたが。
「……今の僕はローガニア軍を率いている身なんだ」
その自覚がアルフレドを押し留めた。
それでも待っていれば、すぐにあの集団はここへ来るんだと、そう言
い聞かせ続けなければならぬほどであったが。
やがてその集団は目前に迫り、一人一人の顔もわかるほどになった。
それは確かに荒くれ獅子騎兵団だったが、皆、激戦を抜けた疲労に満
ちていた。
「どうしたんだ!」
アルフレドが声を張り上げる。
「今説明しますよ」
アルフィオスが馬から降りて、そう静かに言った。
彼は疲れた体を引きずってアルフレドの側にたどり着き、それから小
声でこれまでの出来事を話した。
「……それで、あなたが率いた部隊はなんとか包囲網を2回も突破して
やっとのことで戻ってきた、と。……父上はどうなりました?」
「新皇帝の首でも狙いに行ったのでしょう。……最初からそれが狙いだ
ったようですからね。……荒くれ獅子騎兵団の人間20人と引き換えと
は、なかなか高い首代ですよ」
冗談めかして言うアルフィオスの言葉に、しかしアルフレドは硬い表
情を浮かべた。
「取れないかも知れないぞ、その首は」
その声の真剣さに、アルフィオスは顔色を変えた。
「追撃が止まったんだ。どうしてだか分からなかったけど……あれを見
て、分かった」
言って、アルフレドは地平線の方を指した。
「たった20騎のためにあの大軍全てを使ったんだ。敵は「九騎突攻を
率いた男」、そのぐらいつぎこんでも惜しくないと新皇帝は思ったんだ
ろう。
……小隊1つに当たるにしちゃ破格の扱いだ」
実際、ローガン1世の力をもってすれば、いかなる大軍をもっても太
刀打ちできぬだろう。どんな大軍でも、物理的に一人の人間を囲める数
は決まっているし、その数ならばよほどの手練が含まれていなければ勝
負にもならぬからだ。
もし、ローガン1世が疲労しなければ、の話だが。
新皇帝はローガン1世と荒くれ獅子騎兵団に対して消耗戦を挑んでい
る。次々と兵士を送り込んで、ローガン1世達が疲労するのを待ち、そ
れから改めて手練を送り込むつもりなのだろうと、そうアルフレドは予
測した。
「だとすれば、勝機が来るはずだ……父上が倒れる直前ならば、皇帝が
自由に動かせる兵は確実に減っているはず……止めを刺しにかかったと
きが勝負……」
冷静な顔のままアルフレドはつぶやいた。
「……父上を……いや、ローガン1世を見殺しにする気なのか!」
いつも冷静な顔しかばかりであるアルフィオスが、恐らく彼の生涯で
も稀有であろう激昂を見せた。
だが、その昂ぶりは、アルフレドの姿を見てすぐに失せた。
「……良く見るんだ、アルフレド。敵陣の動きを。父上がどれだけの勢
いで剣を振るっているのかが、きっと見えるはずだ」
自身に言い聞かせながら、腰の剣に置かれた手を引き剥すアルフレド
の姿が、そこにあった。
荒くれ獅子騎兵団にとってローガン1世は主君であり同時に戦友であ
る。かけがえの無い人物であることは確かだが、だがしかし。
アルフレド・ローガンにとってはそれ以前にこの世でたった一人の父
親である。
しかも、アルフレドが幼い頃はローガン1世はまだローガンとしか名
乗らぬ一介の傭兵であったのだ。どんなに父が伝説を造ろうとも、例え
一国の主となろうとも、優しくて強くて大きな父。
それを失う辛さと、将としての判断。
天秤にかけるまでもないことを、天秤にかけ、なおかつ天秤に逆らっ
ている。
堅く結われたアルフレドの唇が、そうアルフィオスに告げていた
打ち、払い、薙ぎ、斬る。
だが未だ新皇帝の元へはたどり着けぬ。
いつの間にか孤立している。四方全てに気が抜けぬ。
足元に骸が転がっている。
ベギン王国の兵士だろう。
だが、気にすることもなくそれを乗り越え、破門王は歩を進めた。
既に馬は殺されていた。
兵士の壁はあまりにも厚かった。
厚いのは当然だ。
今やこの戦場の全ての敵兵はローガン1世ただ一人の首を取るためだ
けに存在しているのだから。
不思議と疲労は感じていなかった。
今ごろがもっとも調子のいい頃か。戦いの空気が全身を満たし、一度
は溜ってきた疲労を嘘のように感じなくなってくる頃。そして、もっと
も危険が迫って来る頃。
何度も何度もこの感覚は味わった。
まだまだ未熟だった頃、一介の傭兵だったころ。
戦っていると、疲れてきて、もうこれ以上剣も振るえなくなって、死
を予感して。
それから急に体が軽くなって、無我夢中で戦うと、いつの間にか生き
延びていた。
そんな頃を、急に思いだし、そして恐怖した。
あの頃は夢中だったのに、今でははっきりと腕の一振り一振りが、筋
肉のわずかな動きが、感じられる。
だが、そんな思考は次の一瞬に生き延びるために邪魔だった。だから、
それはすぐに消え、再び筋肉の脈動がローガン1世の全てを支配した。
固く握られた拳にもう一度力を込めて、アルフレドは一つうなった。
「荒くれ獅子騎兵団でまだ戦える者はついてこい!」
そう叫んで、アルフレドは愛馬にまたがり、誰がついて来るかも確か
めずに拍車を入れた。
その彼を追うように、数十の馬の足音。
振り返ると、騎兵団の生き残り全てがついて来ていた。
「傷ついてる者は帰れ! 手負いの者が無理する事は……」
「あんたの親父殿があれだけ無茶やってるんだ、たかが傷ぐらいで参る
ものか!」
アルフレドの言葉を遮って、どこからともなく上がる声。
「結局破門王の事が気になるのは一緒なんですよ、皆」
いつの間にかアルフレドに並走していたアルフィオスが、言った。
その言葉に頷き、それから何だかわからない喜びでくしゃくしゃにな
った顔を真顔に戻して、アルフレドは口を開いた。
「狙いは皇帝の首だ。今なら敵は父上達に気を取られているから、皇帝
近くの陣容が薄くなっている。この戦いを勝つのには、皇帝を倒さなき
ゃいけない」
「……父上を殺してでも?」
「そうだ。ここで父上が倒れても、皇帝が生きていたらムダになる」
そう告げるアルフレドの顔は、破門王が戦いの直前に見せる顔だった。
「それに……父上が、死ぬものか」
それから、急に幼い顔になって。
それは、父の帰りを待つ幼子のようだった。
「そうだろう?」
答えを聞きたがっているんだ。
そう直観したアルフィオスは、彼の待ち望む答えを口にした。
「勿論ですとも」
その言葉に理由もなく安堵の顔を見せたアルフレドは、再び将として
の顔を取り戻し、その精悍な言葉を放った。
「行くぞ!」
号令が、当然のように重なった。
戦いに明けくれていた破門王が、再び疲労と意識を感じたのは、その
変化が原因だった。確実に戦場を支配し始めたその空気を見逃せぬ程に
は破門王は戦と言う場に慣れている。
それは、焦り。
これまで余裕を持って繰り出されていた兵士達の表情に生まれた小さ
な違い。その動きのぎこちなさ。
そして、始めて見つけた小さな隙間。
今以外に、血路は有り得ぬ。
喉の奥から漏れる咆哮。疾く放たれる肉体、眩しく閃く大剣。
その方位が過たず皇帝の方を向いていたのは果して偶然であったか。
だが、鬼神となりて駆け始めた破門王を止める術は無く、ただ蹂躙さ
れるがまま焦りは更に拡大していく。
蹂躙の果て、いつしか破門王がたどり着いたのはまさしく皇帝ファル
=ルドゥスの目前。
「父上!」
そこには最後の壁、皇帝直衛騎団と剣を交えるアルフレドとわずか残
り5人の手勢の姿。
だが、そんなものは破門王の瞳には入らぬ。
ただ、彼の目に映るのは自分と同じ光を持ったその姿のみ。
「ファル=ルドゥス!」
叫んで、破門王は剣を振るった。彼と皇帝を分かっていた、壁の一つ
が二つに断たれ、赤いものが飛び散った。
ゆっくりと破門王は、皇帝に向かって歩む。
それを見た若き覇者も、自らの剣を抜き放った。
二人は互いを求めあうかのように歩み寄り合い、互いを見据えた。
激戦の続く戦場の中、破門王は邪魔な兵士達を薙ながら、皇帝は冷た
い笑みを浮かべたまま。二人の間を阻めるものはもはや存在しない。
互いの剣を構え、互いに疾る。
二つの剣が、弧を描く。
鋭い剣劇の音。
「陛下、お逃げ下さい!」
交わっていたのは二人の剣ではなかった。
老雄ルドゥ=ガネイ。
彼の構えた剣が皇帝より一瞬早く破門王の剣と交差していた。
「万が一ここで陛下が倒れられれば、帝国は滅びます! 陛下、御英断
を!」
老体を酷使して破門王の剣を支えながら、老雄は叫んだ。
その意を察し、皇帝は剣を収めた。
「……任せる……頼む!」
言って、皇帝は背を向けた。
「命に替えても!」
声を張り上げ、老雄は更に体に鞭打った。
「逃げるか、皇帝よ!」
「戦に勝つには時には戦いに負けることも必要なのだ!」
破門王の叫びに、同じく叫びで老雄が応える。
「どけ!」
「どかぬ!」
「邪魔だ!」
「命に替えても、貴様を通すわけには行かぬ!」
それから、互いに雄叫びを上げながら二つの剣が幾度も撃ち合わされ
る。
全くの互角。
いや、老雄が僅かに押しているか。
その瞳は既に生きることを求めておらぬ。
死を覚悟した強さが、戦神の姿がそこにあった。
だが、死を感じさせるその勢いは、破門王を奮い立たせた。
人一倍強い生への執着がそうさせたのか、はたまた戦士として、強い
相手と戦う喜びなのか。何故かは知らぬが、とにかく、破門王はその一
瞬だけ神をも越えた。
一刀両断。
破門王の剣を受け流そうとした老雄の剣もろとも、その頭蓋を打ち砕
いた。
だが、最後の瞬間、確かに老雄は笑っていた。
戦い抜いた戦士だけの笑顔だった、はずだ。
既に原型を留めぬ頭が、グシャリと地面に崩れ落ちた。
道は開けた。
けれども、破門王の足はそこから一歩も進まなかった。
敵は、ローガニアの僅かな兵を避けるように撤退していた。
互いにこれ以上争う気力もなく、彼らはそれを受け入れた。
「父上!」
アルフレドが、破門王の体に手をかけた。
「……アルフレドか……疲れた……眠りたい……」
そうつぶやくと、破門王はその巨躯を息子に預けた。
こうして帝国軍が撤退したものの、アローメガ軍がこれ以上戦えぬ程
に疲弊したのも事実であり、諸候全てに迫られては、愚劣王とて撤退を
決断せざるを得なかった。だが、終わると思われた戦禍は、しかし続く
ことになるのであるが。