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   忘剣の宵

 女は娼婦だった。
 絶世の美女だったわけではない。
 かといって、超絶的な技巧を持っていたわけでもない。
 娼婦としての技量は、並よりは上、といった程度。
 ただ、愛し方が、上手かった。
「この女ともう一度寝るためなら、それまで生き延びねば」
 そう思わせる、女だった。
 とはいえ、女の体は一つきりだったから、取れる客の数は決まってい
た。
 だから、中にはこの女のためだけに何週間も街に逗留し続ける者さえ
あった。
 それだけ売れていながら、女はそれでも娼婦であり続けた
「早いところ、身請け先でも見つけてしまえばよかろう」
 例えば、ある男が訊くとしよう。
 すると、女は意地悪く微笑んで、
「あら、今は私と一緒なのに、別の男のことを考えろとおっしゃるの?」
 と答える。
「別の男とは限らんさ」
 少し気の効いた男なら、ここまではいけるが。
「ならお断りですわ。せっかくの二人きりですのに、そんな野暮な事を
お訊ねになる方とは、気が合いそうにありませんもの」
 と切り返され、即刻部屋から追い出されるのがオチである。
 娼婦にしてはなかなかないほど上品なのだが、かといって鼻にかかる
ところはない。頭も回るし、実にいい女だった。
 歳は、誰にも分からぬ。
 噂では、10年以上も前から変わらぬ姿であったとも言うし、別の噂
では30年以上も前に別の所で同じ女を見たとも言われる。
 もちろん、この女相手に歳などという野暮な事を訊くような輩はまず
いなかった。

「――いい女だな、お前は」
 事の後、その日の客は呟いた。
「あら、そうでしょうか?」
「ああ、実にいい女だ。これだけいい女だと、何もかもを知りたくなる」
 にこりともせずに、男は云う。
「そんな事を言って、いろんな事を訊き出そうなんて、お考えになって
るのではなくて?」
 わずかに鋼質がかった笑みを浮かべてる女。
「ああ、俺は野暮な男だからな。知れるものなら何でも知りたい」
 言って、男は横たえていた体を起こした。
「だがな、瞳がいかん。その瞳が、戦場を思い出させる。評判の娼婦だ
と聞いていたが、少し残念だな」
 男は立ち上がり、服に手を伸ばした。
 一方の女は、敗北感に打たれていた。
 戦場を思い出させる、という言葉は女にとってこの上ない侮蔑であっ
た。
 それは、戦いを、剣を忘れさせるという娼婦の本分を果たせなかった
ということ。女は娼婦である事に誇りを持っていた。だから、女は打ち
のめされた。そして、続く言葉が女を更に叩いた。
「済まんな。所詮は、戦気違いの戯言だと思ってくれ」
 娼婦は男を写す鏡。
 とある詩人のことばだ。
 娼婦とは、男をとことんまで見透かし、正体をつきつける者である、
ということを詠ったことばであるのだが。
 だが、この男は鏡そのものを見透かしたあげくに立ち去ろうとしてい
る。
 侮蔑だけではない、悔しさが、女を衝き動かした。
「お待ちください」
 買われた娼婦は男次第。
 男が帰るというのを本気で止めるのは、娼婦としては絶対の恥のはず。
しかし女は、見透かされた事にそれ以上の恥を感じた。
 故に、わずかな逡巡を払って女は言った。
「不満足なままお帰しすれば、私の恥。まだ今宵は残りもございます。
今しばらくとどまってはいただけぬでしょうか」
 男は衣を着ける手だけを止めた。
「お前はいい女だと褒めたはず。だというのに、引き留めるか?」
「はい」
「なぜだ?」
 振り向いて、仁王立ちになって男は問う。
 下帯だけ身に付け、ほとんど全裸と変わらぬ躰。その全身の傷が、戦
士としての生き様の証として、女の脳裏に焼き付く。
 その圧倒的な迫力を前に、しかし女は敢然と言い切った。
「お客様に剣を忘れて頂けなかったのなら、私の仕事としては失敗です」
「失敗したから、やり直したいと、そう言うのか?」
「はい」
 毅然と答える女に、男は一瞬にやりと豪快な笑みを浮かべ、しかし直
後、噴怒もあらわに怒鳴る。
「ならばお前は、戦場で切り殺されたからと言ってやり直すのか!」
 かの<破壊の旋風>もかくや、というその立ち姿に、流石の女も怖え
る。
 それを見て、男は、つまらぬ、といったふうに鼻を鳴らし、再び背を
向けた。抜身の怒りはそのままで。
 しかし、その視線がなくなったと同時に、女は幾分落ちつきを取り戻
し、肌着を手にとったばかりの男の背に、告げた。
「ならば、今日限り、娼婦であることを止めましょう」
 その言葉に、男は再び振り向いた。
 先ほど同様の、噴怒に満ちた姿。
 しかし、今度は女に怖れはない。
「私が娼婦を捨てる代わりに、今一度だけ、私に最後の娼婦の仕事をさ
せてくださいませ。この仕事さえ為せるのなら、そこで私の全てが終わ
ってしまっても構いませぬ」
 ほう、と男はうなった。
「ならば、一度だけだ。一度だけ、お前と寝てやろう」
「一度で構いません。どうせあるはずのない一度なのですから」
 女は裸の身体を起こし、立ち上がる。
 ゆっくりと歩いて男に近づき、首に手を回すと、引き寄せてに唇を重
ねた。
 それから、ときにぎこちなく、時に巧妙に愛撫を重ねる。
 一時すら変わらぬ男の鋼質な瞳。
 一時すら変わらぬ女の真剣な眼差し。
 そうして事が再び果てたとき。
「無理だな。どうしても、戦場を思い出す」
 告げる男。
 うなだれる女。
「自惚れておりました」
 云って、身体を持ち上げた女を、男の腕が押し止めた。
「早まるな。俺は、戦場が忘れられんと言っただけだ」
 と漏らした。
「どうもお前の瞳がいかん。真剣すぎてな。どうしても戦場を思い出し
てしまう。……お前に夢中になるから剣の事など忘れるが、それでも戦
場にいるのはどうしたわけかと思ってな……」
 男は急に饒舌に語り始めた。
「考えてみた。簡単な事だ。娼婦のお前にとっては、ここは男に剣だの
鍬だの宝石だのを忘れさせるための戦場だってことだ……違うか?」
 愉しさを満面に浮かべる男。
 女は、その指摘にちょっと目を丸くして、すぐに笑いだした。
 釣られてかどうか、男も豪快に笑い出す。
 ひとしきり笑った後、
「……結局戦気違いの俺が悪いってわけだ」
 まだ半ば笑いながら男は言った。
「いえ、半端者の私のせいですわ。娼婦のくせに、殿方のことも分から
ぬなんて」
 それで顔を見合わせて、どちらともなくまた笑い出して。
 そのうち、男が突然真顔になった。
「俺に戦を忘れさせてみる気はないか?」
「……身請けのお話しでございますか? ならば、お断りですわ」
「なぜだ?」
「だって、あなたに戦場を忘れさせることが出来るようになったとして
も、私はずうっと戦場にいなければならないのですもの。不公平じゃな
いですか」
 ころころと笑う娼婦。
「違いない。……第一、娼婦でないお前に、惹かれるかどうか、怪しい
ものだ」
「あら、それが女に向かって云う言葉ですの?」
「いや、すまんすまん。――ならば、今宵は剣だけでも忘れさせてはく
れぬか」
 男は女を抱きすくめた。
「ええ、喜んで」
 女は微笑みながら答え、男に剣を忘れさせた。
 朝方、陽の昇る寸前。
 男は衣をまとい、「また来る」とだけ告げた。
 女は「承知しました」と応じ。
 それで忘剣の宵は終わった。


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