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修羅と抱擁

 白銀に輝く美しい抜き身の剣が、真紅に染まっていた。
 血。
 一方では剣に栄光をもたらすといわれるもの。
 他方では人を戻れぬ深みに落とす。
 昏い、昏い、淵へと、堕ちていく感覚。
 もう感じられない。
 あと、少し。
 修羅になるまで。

 私は、どうしてここにいるんだろう。
 私の身の内に眠るという強大な精気。それで剣を作るために村ごと焼き払ってでも私を手に入れようとしたあの男達。
 どうして、男達はそんなに剣にとりつかれるのだろう。人を殺めてまで、そんなに力が欲しいのだろうか。不可解な生き物だと思う。剣にとりつかれてまで、どうして剣にこだわるのだろう。身を滅ぼすとわかっているのなら、最初から手を出さなければいいのに。身を滅ぼすとわかったところで、手放せばいいのに。
 そうして、ジムも死んだんだ。焼け落ちてゆく村の中、最期まで護ってくれた幼馴染みの少年の死にざまを思い出し、涙がにじんだ。
 祖父の形見だという剣を持ち出し、曇りのないその刃を初めて振るって、初めて人を殺めてまで、私を護ろうとした。私のために何人も殺して、結局はジムも死んだ。私のためにそんなに人が死ぬのなら、私が死んだほうがいいのかもしれない。
 もう、生きていない方がいいのかもしれない。あの男達はまた私を襲ってくる。私が逃げるのなら、また誰かが死ぬかもしれない。そんなのには、耐えられない。
 次が、最期だ。今度奴等が来たら、おとなしく死を選ぼう。そうすれば、これ以上誰も死なないで済む。こぼれ落ち、地面に吸い込まれていく涙に、そう誓った。

 剣を振るう腕はますます軽かった。歓喜に染まっていく心。真紅の剣と見紛うばかりに紅く染まった、刀身。
 剣はただ渇望のため振るわれ、されど満たされることはない。
 かなしい、のだろうか。
 麻痺していく感情。喜びしか、「感じている」とは認識できない。生きていると、思えない。故に、殺しつづけることで、生を「実感」する。
 名誉、栄光、名声、財産、自由。
 そんなものではなく、ただ「ある」ために剣を振るう、源初の生き物。
 だから、自分の様子がおかしいと悟り、こうなる前に楽にしようと悲壮な覚悟で挑んだ仲間も、容赦なく斬った。殺したという実感は、なかった。ただ、生命をそこに感じた。
 それを狂気だとは思わなかった。
 狂気だと思うことすらできなかった。
 今日までは。

 少女は、怯えた目で、紅く染まった刃を見つめた。
「……あなたが、ころしたの?」
 男の周囲に転がる、無数の肉塊。殆どが血の赤に染まっていた。
「……そう言うらしいな、こういうことを」
「悪いことだと、おもわないの?」
「こうしないと、俺が生きていけない」
 いやにたどたどしく、まるで幼児が言うように、男は言った。
「嘘よ。見ていたもの」
 相変わらず怯えた瞳。目の端に涙。気丈にも苛烈な刃を見つめ、声を絞り出す。そんな怯えの極みの状態でありながら、その意志だけは、男に負けぬほど苛烈であった。
「皆を殺さなくてもよかったのに。この人達の半分は、あなたが、一方的に殺したのよ!」
「……俺は、殺していない」
「嘘!
 その剣についた血は何?」
「……命の、証し」
「あなたの殺した人達の、ね」
「……俺の命のだ」
 刃が、少女に向いた。
 そこに来て初めて、少女は自分も殺されるかもしれないという事実に直面した。
「いや、お願い、殺さないで、お願い!」
 それまでの思いとは裏腹に、少女はそんな叫びをあげた。それほどまでに刃は凶々しかったのか。
 二人の視線は絡み合い、二つづつの瞳が互いをのぞき込んだ。
 死にたくない。
 そう思ったから刃は剣を振り上げた。
 そう思ったから人はただ男を見つめた。
 美しい。
 そう思ったから刃は己を曇らせた。
 そう思ったから人は視線を重ねた。
 そのまま、瞳は見つめあった。

「修羅……というのを知っているか?」
 沸かしたお湯の中にヴェイブーの葉を入れながら――体が暖まるいい匂いが広がる――男は尋ねた。刃は鞘に収まっている。
「知らないわ」
 少女は、さっきよりも落ち着いていた。それでも男にこびり付いた錆びた鉄の匂いは嫌な光景を思い出させるのであろう、安全とは知っているだろうが警戒していた。
「俺みたいに、厄介な剣を手にしちまった連中のなれの果てさ。いつかは、まっとうな人間の手で殺されることになる」
「一つ、聞いていい?」
 男の淋しげな言葉に間を置かず、少女は半ば意図してであろうか、明るい声でそう言った。その明るい声に微笑みを浮かべながら、男は頷いた。
「どうして、あの人達を、殺したの?」
 殺す、と口にしようとしたとき、ためらいが口元を一瞬固めた。だが、男はそれに気付いた様子もない。ただ、また淋しげな顔に戻って呟き始めた。
「何故だろうな。剣を抜いたときのことは、よく覚えていない」
 嘘だ。よく覚えている。全てを失ったあの感覚。あれが「死」というものではないかという恐怖感。それから逃れるために、唯一感じられる物を求めるのだ。剣を振るって、命の炎を絶やしていくことで。その、炎の消える一瞬だけが、生を感じられるときなのだ。
「殺したいと、思っている?」
 ためらいながら、男は首を横に振る。だが、剣を手にせぬこのときには、以前よりずっとものを感じなくなっている。そのうち剣なしでは生きられなくなる。
「……もういいか。飲んでみろ、旨いぞ」
 その事実から目を背けるために、男はカップに注いだヴェイブー茶を少女に手渡した。
 二人でそれぞれのカップの中身を飲み干すまで、沈黙が続く。
 先に飲みおわったのは、少女の方。
「やさしいね、あなた」
 はにかんだ笑顔。数多の世界でも希代であろうといわれる詩人の言葉のとおりだった。
「男を惑わす物は世に二つ。優れた武器と、女の笑み」
 両方に惑わされる俺は、意志の弱い男の代表だろうかと、少し皮肉を込めて微笑みかえしたとき、強烈に生を感じた。

 梟が、鳴いている。
 傍らには毛布にくるまり、あどけない寝顔を見せる少女。
 自身の躯は、強烈な疲労に包まれている。
 眠れば悪夢が心を蝕む。剣を握れば疲労は消えるが、悪夢以上に心を蝕む。
 ならば、夢も見れぬほど疲れるまで、耐えてみせよう。
 そうやって無理を続けることもまた心を蝕んでいることに、男は気付かない。
 もはやどうしようと、堕ちていくのみ。
 ふと。
 梟の囁きにそそのかされたか、剣を、鞘から少しだけ抜いた。
 血の一滴すらぬぐわずに納めたはずの刀身は、再び白銀の輝きを取り戻していた。遥か遠くの、始源の剣の輝きが、月明かりとともに、刀身を妖しく輝かせる。
 抜きたい。この剣を抜き放って、そこに静かに横たわっている命を、かき消したい。
 瞳は、刀身の輝きの奥、無数の悪夢を見つめる。
 気高く輝くその様は、剣の名に相応しくない。
 かつての仲間は、この剣に魅入られた俺を「救おう」と俺を罠にかけた。だから、俺は、剣に誘われるまま報酬としての死を与えた。
 剣を収めたとき、俺は「罪」の代償を払わねばと思った。だが、その罪悪感は、剣を抜くと同時に消え去った。
 どんどん希薄になっていく感覚。
 だから、俺は剣を振るった。
 この邪なる剣、<永遠の無明>を。
 強烈な感覚。生の実感。それなしでは生きられぬほどの、快楽。
 そうしてここまで俺は堕ちた。
 もはや、一人殺しても変わりはない。
 剣は、抜き放たれた。
 だが、手は動かなかった。
 いやだ。
 俺はこの娘を殺したくない。俺はこの娘を殺したくない。こんなにも美しく、こんなにも可愛く、こんなにもあどけなく、それでこんなにも息づいている――そう、生きているこれを、壊したくない。
 だから、手は動かなかった。その手が意のままになることをゆっくりと確かめると、剣を再び鞘に納め、男は少女の傍らに横たわった。悪夢は、怖くなかった。

 私は、どうしてここにいるんだろう。
 隣で眠り込んでいる、意外にもあどけない男の寝顔を見ながら、少女は思いを馳せた。
 家族も友達も、秘かに想っていたジムも殺されて、これ以上人が死ぬのを見たくないからと、奴らに殺される覚悟を決めていたのに。なのに、どうしてこんな人殺しの側にいるんだろう。
 ただ、死にたくないと思っているのは事実だった。
 人殺し、か。
 とてもそうは見えない。眠っているからだろうか?
 この人は、やさしい人だった。人を殺してたのに。哀しい目をしていた。見ているこちらが辛いほど、哀しい目をしていた。
 その哀しさを誤魔化すために人を殺しているんだ、きっと。
 根拠は無いが、そう確信した。
 でも、それでも哀しさは誤魔化せない。
 私と、一緒だ。たぶん、そう。
 どんなに逃げても、逃げ切れないんだ、傷ついていくことから。
 私達は、足りない何かを補いあえるかもしれないと、そんな気がした。
 これが運命の出会いというやつかもしれない。少し前までなら思ったであろうそんな考えは、かけらほども出てこなかった。その出会いは運命などではなく、少女にとっては当然になのだから。
 この人の渇きを癒したい、そう願って少女は立ち上がった。
 とりあえず、朝食をつくってびっくりさせてあげようか。
 何日間か忘れていた、心からの笑顔がこぼれていることに、彼女自身は気付くはずもなかった。それもまた、当然なのだから。

 声が、した。
 だから目覚めた。
 傍らに少女はいなかった。
 胸騒ぎがする。
 少女はどこかと、探した。
 焚き火の準備、石を組んで作ったかまど、皿に置かれたパン。
 水を汲みに行ったのだろうか。
 また、声がした。
 か細い、小さな声。聞き取れるか聞き取れないかの。だが、駆け出していた。
 何故?
 何のために?
 そんなことをわかる間もなく、身体は動き、剣を抜き放っていた。急激に甦る感覚。だが、それと引き替えにかぼそい声は聞こえなくなった。
 気のせいだったのかと思い、立ち止まって剣を収めると、また聞こえてきた。
 剣を収めた瞬間に小鳥のさえずりも木々の葉の擦れ合う音も消えたというのに、その声だけは聞こえていた。
 守らなければ。
 
 何を?
 あの少女を。
 
 何故?
 おまえは修羅だというのに。
 違う。俺は人間だ。自分の意志で自分のために剣を振るうんだ。
  同じじゃないか。修羅になることと何が違う?
  自分の意志で、自分のために剣を振るうのは同じではないか。
 いやだ。俺は、あの娘を守らねばならん。
 いいや、守りたいんだ。俺自身の意志として。
 視界が開けた。
 それぞれに武器を携えた男達と、あの少女。
 少女の足元には水袋が落ちていて、口から水が力なく流れ出てゆく。その側にへたりこんだ少女の足を濡らしている。
 か細い声。
 よく聞こえない。ただ、少女が危機に堕っているのだけは確かだった。
 だから思った。俺が守る、と。
 勢いよく剣を抜き放ち、構え、感覚が急激に甦ったのと同時に男達が口々に言った。
「貴様、何のつもりだ!」
「死にたくなければすぐに消えろ!」
「冗談はそこまでにしろ!」
 男達も武器を構えた。脅しているつもりらしい。
「逃げて!」
 この場に満ちはじめた殺気に刺激されたか、少女が叫んだ。
 逃げて、だと?
 冗談ではない。そんなことをしたら、守れないではないか。
「消えるのはお前達の方だ。この娘を傷つけるというのなら俺が赦さん」
 剣を握る手に力を込めて、男は言った。
「馬鹿は程々にしておいたほうがいい。俺達が用があるのはこの娘だけだからな」
「ならば、馬鹿で構わないさ。俺はこの娘を守るんだ」
 男達はそれ以上の説得をあきらめたらしい。各々に武器を振り回し、躍りかかった。
 男は武器を持つ手に力を込めた。人としての意志で。だが、修羅を求める剣はそれに反するように吠え、感覚は急激に消えていった。
 故に、剣の輝きは鈍く、男は劣勢に堕った。
  力が欲しくば、修羅に堕ちよ。さすれば力は汝がものになる。
 自らの意志を捨ててまでか?
  それでも力が欲しいのだろう?
 どうして力が欲しいんだ?
 どうして力が欲しいんだ?
「無駄な殺生は好まんのでな。この娘を殺されたくなかったら降伏しろ」
 劣勢を挽回しようと躍起になっていたのが悪かったのだろう、少女が男達の一人の腕の中に捉えられていた。首筋に剣をあてがわれ、身動き一つ許されないでいる。
 守らねば、助けねば。
 だから、力が欲しい。
 そのためには、人としての意志などいらぬ、あの娘を守るためなら、喜んで修羅に堕ちよう。
 そうして、男は初めて剣の意志を受け入れた。
 溢れる力と限りない渇望。甦る感覚。
 たちまちのうちに男を取り囲んでいた男達は命を断たれ、修羅はその一瞬だけ命を取り戻す。少女を捉えていた男は修羅の瞳と剣との妖しさに心乱され、逃げ出した。
 ただ、少女だけはその姿をいとおしく、哀しく感じた。
 だから、敵の滅び去ったというのに未だもって修羅として立ち尽くす男に近寄り、その身に腕を回し、背伸びをして唇を重ねた。
 命を滅ぼすのに限りない渇望を持つはずの修羅は何故だか動かず、代わりに剣を手から放り出して少女の身体を抱きしめた。壊れないように、優しく。
 剣を手放したゆえ、感覚が消滅するはずの肉体には何故だか血の通う感覚が溢れ、触れ合った所は熱くたぎり――命が湧き出していた。
 お前のためになら、喜んで修羅に堕ちよう。
 言葉はなくともその思いは伝わり、少女もまた何も言わぬまま語った。
 あなたを包むために、生きてみせる。
 あなたが生を感じられるなら、喜んでこの身を捧げよう。
 或いは守られるは修羅の方なのかもしれぬ。

 もはやこの抱擁はいかなものによっても壊すこと叶わぬ。
 かくて修羅は抱擁を得ん。
 抱擁――なんと修羅には似合わぬ言葉か。


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