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テイスト・オブ・シナモンシュガー

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テイスト・オブ・シナモンシュガー

遅くなってしまったけれど、以前の予告どおりあんよさんとのIRCのログを元にちょっとばかり「まなびストレート」について語ってみるというお話。

anyo: まったく同感のはずなのに、つい他人との普通競争しかねない自分を振り返るちょうどいい機会でした。
white: しかしシナモンシュガーレイズド・ハピネスは実際白眉でしたよ。
anyo: あれ、よかったですよね
white: あのなんでもない話で客の目を引きつけておけるというのはそれだけですごいです。
anyo: 小説の理想みたいなものですか。
white: いや、媒体限らずでですね、本当に空気感だのキャラクターの関係だけで話が構築されてると言うか、実は話なんてないんですけど、でもそれでも確かになにかがあるのがね、すごい。

ということで第6話「シナモンシュガーレイズド・ハピネス」について。

「何もないか」というとそういうわけでもなくて。でも芽生の心理を深くまで掘り下げた第4話「プロモでゴーの巻」とは明らかに異なるスタイルの回だった。

anyo: わずかな話数でそこまでいけるものなんですねぇ
white: いや、これは話数の問題じゃないですよ。「こういうのやる!」という覚悟がないとこれは作れない
anyo: それはほんとそう思います>覚悟
white: 細田守とかがよくやるスタイルにも似てるんだけどあれより徹底してるかもしれない
anyo: だけど、やっぱりある程度の話の積み重ねがないと、そういう人物の関係って伝えにくいのかな、と思っているのですが、どうもそうでもなさげ

まさしく「そうでもない」ことの証明が「シナモンシュガーレイズド・ハピネス」だ。その話までに積み重ねが用意されていないなら、その回で積み重ねてしまえばいい。積み重ねがない状態で、にも関わらずそういう話をやるにはどうすればいいか。そういうテクニックが満載されてる。

white: あれは映像作品だからできる圧縮テクニックを多用してたんじゃないかな、と思います。小説とか漫画とかだと、たぶん難しい
anyo: あ、なるほど。画面が濃密ですもんね。
white: 画面の濃さもそうだし、タイムラインをぽんぽん飛ばすのもそう

一般的には「モンタージュ手法」と呼ばれるテクニックだ。映像以外でもやれるけど、映像とは特に相性がいい。なにしろ映像は、ほんの数秒のカットでぽんぽんと画面を切り換えていっても十分な情報を伝えられるので。

anyo: そのへんを感じ取れないと、脚本や演出が悪いということになるとも思いますけど。

そのモンタージュ手法の(利点と表裏一体の)欠点がこれ。個々のシーンに意味がありすぎて、そのテンポが掴めないとなにがなんだかわからないシロモノになってしまう。それでも見た目が派手ならとりあえず楽しめるのだが、「シナモン〜」は残念ながら派手とはいいがたい、むしろ地味な画面の集まりだった。話中でメインになるのが、内向的で気持ちを口にしないみかんと、人の間の機微に敏感なゆえに余計なことをかたらないむつき、という組み合わせなのもこれに拍車をかける。

white: でもですね、脚本は「しっかりした絵がつけば見られるものになる」という確信の下で書かれていて、実際しっかりした絵がついているわけですよ。
anyo: そうか、だからそのへんの組み合わせを感じられないと、「作画のよさでごまかしてる」となっちゃうわけですか
white: 特に「シナモン〜」は「作画のよさを見せる回」かなあと。脚本はわざと引いて、作画で25分押し切ろう、というコンセプトで。

このへん、アニメ脚本家としての金月龍之助の仕事の特徴的なあたりだと思う。

特にまなびストレートにおける仕事では、ほぼ各話に1回という大変な頻度で、台詞ナシで音楽と動画でシーンを詰め込んで見せていくシークエンスを使っている。明らかに脚本段階から意識的に組み込んでいるのでなければ、そんな回数にはならないだろう。

white: ただ、観る側がノスタルジーを抱いてくれることを期待し過ぎてるようにも思います。
anyo: たしかにぼくの場合、ノスタルジー感じまくりですねえ。ある程度以上の年齢でないと分からないと感じたのはそういうことなのかな
white: 画面にしろ、脚本にしろ、俯瞰しないとたぶん必要な情報が得られない。
anyo: 脚本で引くって、やるほうからするとすんごい怖いことのような
white: すんごい怖いと思いますよ。でもufotableだと、期待すればそれだけやってくれますから。
anyo: たいしたもんですねえ

台詞に頼らない――むしろ画面に頼ることを前提とした脚本を書く、というのは動画畑の人間にとってはともかく、文芸畑の人間にとっては勇気のいる行為だろう。しかし金月龍之助はそこできちんと「作画任せ」を選択できるセンスを持っているように思う。「とっておき」のシーンこそに台詞ナシの場面が使われ、脚本はそこに至るまでの周到な下ごしらえの仕事に徹している。

その用意周到ぶりは――「シナモン〜」の話ではなくてシリーズ全体の話になってしまうが、「勝利のポーズ」の使いかたなどに顕著だった。あの、言葉には実現できないわかりやすさ。画面で見せる、ということの強みがよく出たシーンであり、同時にシリーズ構成の段階で練り込んでおかなければ成立しえないシーンでもあった。脚本家がぐだぐだ言葉で語ったところで上すべるところを、あっさり作画に美味しい部分を任せてしまう。実に理想的な、映像作品のための台本書きだ。

white: なんか事件を起こしたら話はわかりやすくなると思うんですよ。
anyo: うん、ドラマ仕立てにすぐなりますね
white: でも、「なんでもない日々」を描くためには事件を起こしちゃいけない。「なんでもない日」を見せたいから、「なにも起こさない」。でもなにかがないと話が成立しないから、最低限のことだけはやる。で、作画で引っ張る。
anyo: 引き算のアニメ
white: 脚本は引き算して、作画で足し算してる。
anyo: そして妄想感想で掛け算
white: というか、作ってる方がそこを期待してるんじゃないかな、とね>掛け算

話をもどそう。実際、「シナモン〜」は「想像しなさい!」と全力で言っているような回だった。いやらしいほどに内面に寄っての描写を主体としていた「プロモでゴーの巻」とは正反対の、できるだけ心理描写を抑えて引いたカメラで光景を描いていくようなスタイル。大した説明もなしの回想シーンの数々。街というロケーションをスパイスに、ふたりが本当の友達になる、なろうとしているという「なんでもない」出来事を描き出していく。ストーリー上のわかりやすい盛り上がりもエンドマークもそこにはない。だけれど、そういうものがないからこそ、過去のふたりと今のふたりがどう違うのかが見えてくる。

anyo: まんまと期待通りに(笑 white: そもそも「まなび」がシリーズ全体としてノスタルジーを攻めてくる方針っぽいですから、そうすると、ノスタルジーの支えがないとよくわかんないものになっちゃうかもですよ。 anyo: 視聴者を選ぶ作品ですね。まあ、そうでない作品も少ないだろうけど、幅がずいぶんと狭いのかも

だがしかし、その「見えてくる」ってのも、見取るための訓練ができてないと空振りしちゃうよな、とも思う。でも、「見せたいもの」のために脚本も作画も演出も一体になって練り上げられた、って意味では「まなび」は十分以上によくできたシリーズだった。特に最終回、繰り返しをきっちり使い切った構成にはうならざるを得ないほどの。だからこそ、逆に「なんで合唱しなかったのさ」といいたくなってしまうのだけれど。

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