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本質なきという本質

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本質なきという本質

しばらく前に同居人とラーメン屋でした話。

_「正しい日本語」という物言いは、「正しい人間の遺伝子」という物言い程度にはナンセンスなのではないだろうか。

あるサンプルDNAと厳密に同一でないことはそのDNA人間のものでないことを意味しない。「これこれこんな具合の特徴を持っているからとりあえず人間だろう」みたいな判定はできる。

同様に、言語も「これこれこんな特徴があるからとりあえず日本語だろう」みたいな判定はできる。しかし厳密に同一でないからといって日本語でないと断じてしまうことは違うと思う。

_言語というのは、概念を表現するための道具である。言語使用者が新しい概念に遭遇した際には、使用者はこれまでの言語を<乱す>ことで、この新しい概念を表現しようとする。すなわち、使用者が新しい概念に接触しうるのであれば、言語は<乱れ>をも許容する必要があるのではないか。ちょうど生物が遺伝異常という形で乱れる――工学的な意味での「遊び」――余地を担保しているように。そして、言語にしろ生物にしろ、その遊びこそが環境に対して適応していく強靭さにつながるのではないか。

_もちろん、状況に対しゆるやかに変化していく言語なり遺伝子なりがそれでも保持し続ける「本質」とでも呼ぶべきもの(いわゆる「ミーム」?)はあるだろう。だが、それすらも言語や遺伝子のような遺伝性情報にとってはとりあえず保つべき形質に過ぎず、本当に必要があれば今見えている本質らしきものですら打ち捨てて、平気で変化していくのだろう。

_もちろんあんまり無秩序に変化されても困るので、変化に抗する形の逆圧力だって存在する必要があるわけだが、少なくとも唯一無二の言語の本質なんてものも人間の遺伝子の雛型なんてものも存在しない。それらは変質していく――本質なんて究極的には霧散しうる――ことこそが、本質なのではないだろうか。

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