Whiteのふりーとーく

文と絵・あるいは戦うという友情

About this Page |過去分一覧

近頃版/another blog@hatena/Wiki/BBS

< どろぼー | 文と絵・あるいはTo Heart怨み節 >

 

文と絵・あるいは戦うという友情

各所を読んで触発されて。ポインタとしては文月さんの返答の段を指しておくのが適当かな?

_文章書きにとっては、挿絵なんて正直「どうでもいい」ものなのではないかと思います。とか言うと誤解を招くかもしれませんが、少なくとも私はそんなふうに思ってます。

絵ではなく、音楽でもなく、文章を書く以上、それは文章ならではものになると思います。それを簡単に絵なんかにされてたまるもんですか、とも思います。もちろん絵を描く人が本気になれば(そして十分な技量があれば)それは絵になっちゃったりもするのですが、しかしそれでも文章書きとしての私は「そう簡単にこれを文章以外にされてたまるか」と思い、そのようなものを目指して書くのです。

真にわがままな文章書きであれば、自分の作品を元に絵が付いた時点、というか絵を付けようとした時点で「もう違うからどうでもいいよ」とのたまうぐらいが正しい態度なのではないか、とすら思います。

_しかし文章と絵をパッケージングするのが役割であるところの編集という立場になれば、これはぜんぜん違う意見になります。絵と文のどちらが主なのかにもよりますが、絵としての完成度や文章としての完成度ではなく、「本」としての完成度のために編集は口を出すべきですし、出さねばならないはずです(なにせそれが役割ですから)。

ただし編集の役割となるとある種の市場原理が働いたりもします。需要と供給の関係というか。元となる話で想定されているであろう文章同人誌作家(私もその立場ですが)についていうならば、彼らは多くの場合、文章書きでありながら編集でもあるのです。ここで編集の立場を優先するならば、絵描きと喧嘩するリスクを犯すのは愚の骨頂というものでしょう。特にこれからも継続して絵を描いて欲しいと思っているならば。

_しかしながら、文章書きと絵描きという舞台違いにせよ「なにか」を求める同志としてお互いを認識するのなら、そのときは互いに本気の殴り合いを演じるのが唯一無二の道であろうと思います。絵に(あるいは文章に)ついては素人だからと遠慮することはありません。「『絵描き(or 文章書き)』でない俺にもわかってしまうようなことを直さない道理があるか!」が基本と言ってもいいでしょう。もちろん気付くためにはその分野における審美眼が必要になるのですが、「なにか」を求めようとする道程においては畑違いの審美眼とて必らずや強力な武器となるでしょう。

_本を売るための方便として絵が必要という割り切りでつきあうのか。あるいはコラボレーティブな創作物を作りたいのか。はたまた進む道が違えど真に戦う同志でありたいのか。互いになにを求めたいのかで、そういう関係は変わっていくと思います。

一つ言えるとすれば、より踏みこんだ立場の同志とはとても得難いものなのです。あなたを攻め立てるその言葉は、あるいは何よりも強力な深交のためのメッセージなのかもしれません。

TrackBack ping url:

名前

TrackBack:


御意見・御感想の宛先white@niu.ne.jp