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ゲームとプレイスタイル論(落穂拾い編2)(200410021551)への返答として。既にほとんどの論点で正しく了解が得られてしまっている感があるのですが一応続き。
「プレイ」が変質/変わる事を全ての参加者が認めていない場合には「逸脱/非逸脱の間での闘争」という新たな「ゲーム」ないしは「プレイ」が立ち現われるのです、というのは流石に無茶苦茶なもの言いですか。しかし、「プレイスタイル論」というのはまさしくそういった闘争そのものでありますし、あるいは世の中に溢れている論点の発散しきった議論のなれの果ての罵り合いというのは得てしてそうやって産まれる(もしくは意図的に産み出される)ような気がします。
1)仮想的なものであり(なんらかのモデル化など現実からある程度離れている)
2)最終目的があり
3)有限時間で最終目的に到達することが可能であり
4)最終目標を目指して行動するもの
(2)で示される「最終目的」と(4)で示される「最終目標」で語が違うのは意図的でしょうか? ここで語が違うことは「最終目的」とは違う「最終目標」を認めることになり、すなわち逸脱を許容してしまうことになるのでよろしくないと思うのですが。
というツッコミはさておき、(4)はプレイヤーの行動指針に対する言及という点で、(1)〜(3)とは性質が違いますね。実際にはルールに記述されることではなく、「ゲームプレイヤー」の側で自発的に規定するルールになるでしょう。ここで(4)の部分を破壊するケースが大半の「逸脱済みゲーム」になるのでしょう。
_ゲームにおける報復行動について。これは該当部分の私の記述が明快でありませんでしたね。ということでまずは言い直し。
悪辣な手であるプレイヤーの勝利を消滅させるのは「リアル・ゲーム」のためには正しくとも「ファニー・ゲーム」としては望ましくない。
この場合において、「リアル・ゲーム」は間違いなく全員に共有されている(はず)です。しかし同時に「ファニー・ゲーム」もそこには存在している。このどちらをどれだけ優先するかという割合・指針も含めたものがそのプレイヤーにとっての「ゲーム」と言えるでしょう。
そして、この個々人の「ゲーム」は同じではない、と思います。だから、それがどの程度共有されているかを見極めるのが、実際にゲームをプレイする場合重要になることがある。
とはいえ、全員が純然と「リアル・ゲーム」としてプレイしていても報復行動は「ファニー・ゲーム」に起因する報復行動とは別のロジックでもって遂行されるはずですが。
_(狭義)ゲームが連続して立ち現われるという現象について。これと同様の構図が(狭義)ゲームを行っている場合にも、あるいは(広義)ゲームを行っている場合にも発生することは理解していただけるでしょうか?
「目標」を持った存在が行動するとき、その最小の局面は必ず(狭義)ゲームになる、と言ってもいいかもしれません。あるいは、「行動」という意志を伴った所作そのものが小さなゲームを誘発し成立させる必要十分条件だと言うことができるのかもしれません。