_ ちうわけでAIRをスタート。以下、いちおうネタバレですが極力意味不明気味に記述。明瞭になっちゃいそうな部分についてはコメントアウト(よりぬき編では、コメントアウト部分を別色で表示してしまっています。ネタバレ注意)、と。
_ AIR。とりあえずお話的には完遂。CG達成率97%。
ちうことで、再び極力意味不明気味に記述。明瞭な記述についてはコメントアウト、と。
_ AIR話。
_ 改編するというコンセプトだと、まんまYU-NOがそんなモチーフのような。つっても、YU-NOはシステマティックに過ぎるきらいがありますし、ノベル形式でやることに価値はありそうです。
_ 選択肢がないのは必然ですか。ですね。言われてようやく気付きました(恥)
んでも、AIRで選択肢が消滅するタイミングは、ちょっと早いように思います。も少し行動介入できる(もとい、できそうでできない)期間が長い方が、好み(*1)です。 という物言いと、自らの「この冗長さは正解」という発言の間に、矛盾を感じてみたり(--;_ そうそう、SUMMER編についての要望の、もう一つの可能性を書き忘れてました。もっと長くて凄い、というのもアリです。3行ウィンドウでやられると間が持ちませんけどね。
_ ときに、物語の作者ってのは、傲慢じゃなきゃいけないと思うんですよ。自分の中の譲れない部分についてだけは、もう絶対読者に媚びちゃいけない。この作品ではこれだけはやる、どんな文句を言われようとこれだけは果たす。そういう部分がないと、作品ってものは成立しない。もちろん他の部分でバランスを取らないと、一般性が失われたりしますけど。それでも、譲っちゃいけない傲慢さはある。
_ AIRにおいての譲れない部分は――「生きた軌跡の物語」であること、だと思ってます。過酷な状況があり、それぞれの想いがある。その中で、それぞれの人がどんな軌跡を描いて生きたか。それを伝えるための物語であって、そこに介入されたり同化されたりするわけにはいかない――だからこそ、AIRという物語は読者を弾き出すのでしょう。
序盤に散々ゲームを利用して状況を伝えておきながら、いきなり手のひら返すあたりは非道な気もしますが(^^;
_ AIR話。めっちゃネタばれです。
_ よく2次創作のネタにしづらい、とかいう評も聞こえてくるAIRですが、果たしてそうなのでしょうか。
つーか、単純にパッと考えただけでもですね、少なくともあと994個\1000 引くことの 佳乃、美凪、観鈴、神奈、往人の母親、ほいでもってAIRの計6つ = 994 、ってな計算のつもり。は夏の物語が語れる余地があるわけで。
もっとも、それではパーツはほとんど使い回せません。できあがるのはほぼ1次創作なシロモノでしょう。はたしてそれは2次創作なのか、はたまたそんなものが広く期待されるか、と考えると非常に見込み薄ですけど。
_ とはいえ、別に2次創作なんて作品に対するラブレターみたいなもので、期待されてるかなんてどーでもいい、という部分はあるでしょう。
2次創作の楽しみって、既に提示された世界を愛で慈しむことなんですよね。その世界が大好きだから、そこからのキャラや雰囲気や出来事を取り出して観察するだけで楽しい。どうしようもなく楽しい。
あれですね、思わずのろけ話を聞かせてしまうのと、根底は一緒かも(笑)
_ ところがAIRは、ずけずけとこの「2次創作の楽しみ」の部分に侵略をかけやがります。AIRという作品は、いわば世界を提示し、その世界を半ば強制的に愛で慈しませようとするのです――というようなことを、先日雪駄さんとこの掲示板に書き込んだのですけどね。
_ しかし、愛しかた・慈しみかたを強制しちゃうわけですから、当然不満を持つ人も出てくると思います。でも、それを敢えて踏まえた上で、伝えたいことを伝えるためにあれやこれやと工夫を凝らした。ものすごく計算した上で、全体構成を行っている。私には、AIRというのはそんな表現だと思えます。
_ 実のところ、AIRにとって全体のストーリーなんぞは刺身のツマで、でもツマをたらふく食べてからでないと肝心の刺身は美味しくないのです。
AIRは、そこでツマをたらふく食べさせるためにいろいろ悪どいことをしてます。そのへんの、ゲームを悪どく表現に利用してる(*1)あたり、私にとってはこの上なくやりたい放題に見えて、そそられる一品です。_ AIR話。「ゲーム表現としてのAIR」について、考察など。
_ 「半ば強制的に愛で慈しませようとする」行為は、キャラクターの記号化という点もそうですが、もうひとつ、シナリオ全体の構造による誘導もかかってると思うのです。というか、私が着目しているのはまさしくそこなのですけど。
_ AIRという物語は、明確に傍観者としての立場を要求してくる物語です。
ですが、それはただの傍観者ではありません。深く関わり、愛し慈しんだ世界が――どのようにあるのか、どのようになるのか。それを傍観することを求めてきます。
_ AIRという物語には、明確な3部構成が存在します。
すなわち、DREAM、SUMMER、AIRと名付けられたそれぞれのシナリオです。
そしてその表現の核心は、AIR編、特にその後半部分にあります。
_ DREAM編、SUMMER編の物語を受け取らせておく(願わくば随所で泣かせておく)こと。及びAIR前半で自分の行動を追体験させておくこと。こうすることで、プレイヤーがAIR後半に到達する頃までに、ユーザーの中に世界に対する認識を形成しようとしています。
この時点で、予想範囲内にユーザーが誘導されていることが、AIRという表現の大前提です。ここで、世界の部品を再構成して自己世界に適合した形に――なんてことをやられると、前提が崩壊します。
_ 物語的にはここ(AIR後半開始時点)がスタートラインです。既に20時間近くもプレイしてて、ようやくスタートラインです。ですがここまでの部分が無駄だったかというと、それはNoです。
ここまでの物語で、プレイヤーの中には
が形成されているはずです。
すなわち、SUMMERにて始まり、1000もの夏の間に幾多の方術使いの中を通り、最後の方術使い(= 往人:PC)を経由し――そしてまだ果たされていない想いです。
_ そして、AIRの後半が始まります。
これ以降、以後ストーリーに関与することはできません。
できることはただ、そこで起こる出来事を眺めることだけです。
そこでは、家族の物語が展開されます。
_ ですが。
もしもプレイヤーの中に、これまでに語られたいくつかの夏の物語が、それらを通じて受け継がれてきた想いが、その想いを果たそうと足掻いた記憶が、それらがプレイヤー自身の物語として息づいているなら。
そこで展開される物語は、自分(PC)を経由していった想いが達成される物語です。自分の想いを継いでくれた人たちが、足掻き、苦しみ、想いを成す物語です。
_ その想いの物語を感じさせるために、AIRという物語は、読者に傍観者としての立場を要求してきます。
大切に受け継がれてきた想いがある。その想いを自分(PC)も受け継ぐ。それを果たそうとする。果たせずに受け継がせてしまう。そうして受け継がせてしまった想いがどうなるのか。想いと共にある人が、どう生きていくのか。愛で慈しまずにいられないそれらを、傍観することしかできないこと。
_ 読者が弾き出されるのは、ある意味当然です。それは自身の物語でなく、手出しのできない彼岸の物語でなければならないのですから。
_ ちなみに、ストーリーコンセプト的に類似したゲームとして――「ドラゴンクエストV」、「俺の屍を越えてゆけ」を挙げておきます。
あと、やってること自体はかなり"YU-NO"の直系めいてると思うのですけど。あまり言及した文書をみかけませんね。――と思ったら、こちらのAIRプレイレポート(完全ネタバレレポート)の後半部分とかに、そんな記述をみつけました。内容もよくまとまってますし、オススメしときます。